石井の岩座(いわくら)((すい)(のう)(さま)(じゃ)(いし)とカンカン石)

 

平成15年12月5日調査

伊藤利光

 

 飛騨の高山では飛騨の意味は山並みの(ひだ)の多いことからきたという。大分県の日田もそのような意味合いがたぶんに含まれているような気がする。日田の山並みの襞の間を大小無数といってよいほどの河川が縦横に流れている。湿潤で水清く底霧の盆地は縄文晩期から弥生時代の早期にかけての稲作に最適の条件をもっていた。今でも日田周辺の山地際には河川の上流の細流には貼りつくように棚田が天まで届くように作られているところがある。平野部の稲作は鉄器を利用した道具による大規模の土木作業ができるようになった弥生中期以降である。

 人口385万人のパプアニューギニアでは数百の言語が存在する。その理由は峻険な山々の峪ごとに部族が住んでいるがあまりにもその渓谷が深いので部族間の交流がなく、したがって言語も渓谷沿いに限定され、共通語への発展を見ることができなかった。

 江戸時代の日本でも薩摩と会津藩の武士が会話をする場合には謡曲の言葉に近い侍語、さようしからば何々でござるということで通じたという。そのようの意味では日本でも近世までは数百の言語があったということができる。

 さて言語が多様なように宗教祭事も多様であり、八百万の神々がそれぞれの部落に存在した。日本の神とは何か、ひるがえって日田におわします神仏とは何か、というよりも明治の廃仏毀釈(きしゃく)と戦後の過度の物質文明の蔓延(まんえん)によって失われてしまった神仏とは何かを探って見ることにする。それでも日田の山間部では戦前の祭事を守り続けているところも少なくはない。つい先日12月14日庚申の日に小鹿田の坂本茂木さんを訪ねた。ところが今夜は庚申(こうしん)様で一杯やるので昼間そうそうは飲めないよといったので掛蕎麦(かけそば)を肴に3合ほどで切り上げた。

()庚申信仰 庚申信仰は三尸(さんし)説に基づく陰陽道系の信仰で朝廷をはじめひろく民間に普及し、農村では庚申講が発達した。道教では三尸神は人間の体内に三匹の虫がいて上尸神は頭、中尸神は胸、下尸神は身体下部の病をおこすとしている。三尸神は庚申(かのえさる)の夜に爪先から抜け出して天に昇り、玉皇大帝(北極星)のもとにおもむきその人間いついて悪い報告をするという。玉皇大帝はそれを鬼籍という記録帖に書き込んで、その者の死期を決めるという。これを怖れて、庚申の夜は徹夜して行いをつつしむ守庚申(さる待ち)という。庚申の夜は雑談をして過ごし、性行為を忌んで、この夜にはらんだ子は盗人になると信じられていた。庚申の神は農業神のサルタビコノカミとされ、また密教と習合して髪を逆立てた六臂(ろっぴ)青面(しょうめん)金剛であらわされた。(さる)にちなみ、見ざる、言わざる、聞かざるの三匹のサルを刻んだ。この三猿は、庚申の夜を怖れて、悪いことを見るな、聞くな、言うなと戒めたものである。

「日本宗教事典」

日田の弥生の稲作遺跡

 2003年5月20日の読売新聞報道は「弥生」500年早まる。という記事を掲載した。したがって今までに定説であったやよい時代は紀元前5−4世紀ごろの中国戦国時代あの混乱に乗じて中国、朝鮮半島から稲作と鉄器を持った渡来人が日本にわたってきたからだとされていた。九州北部で出土した弥生式と朝鮮半島の土器の計測の結果弥生時代は紀元前9−8世紀にさかのぼる可能性があると発表した。

 水田稲作がはじまった弥生時代早期前半(()(うす)1式)は紀元前10世紀までさかのぼる可能性があると結論付けた。(国立歴史民俗博物館)

 したがって博物館の春成教授(考古学)は「殷が滅亡して西周が成立するころ(紀元前1027年頃)の時代背景を検討しなければならなくなった。クニの成立に至る弥生文化の展開が之までの常識よりは時間をかけて進んだと言える」と指摘した。

 

()()(うす)式土器 福岡市の板付遺跡で1979年、それまで縄文土器に分類されていた夜臼式土器とともに水田の遺構が発見され、弥生時代が早まると考えるべきか、縄文時代に稲作が始まったと考えるべきかで論争が続いている。ただし、福岡県二丈町の曲がり田遺跡では弥生早期の鉄器が出土しており、これが紀元前9−8世紀となれば中国で本格的に鉄器が普及する前に日本に鉄器が存在していたことになってしまう。

()弥生式土器 東京文京区の弥生町遺跡で1884年縄文式土器とは異なる土器が発見された。ロクロを使用せず、600−800度の野焼きで作られたとされる。

 

 日田は福岡県との県境の町である。夜臼式土器は筑後川−三隅川沿いか英彦山経由、大肥川沿いに伝播した可能性がある。それと同時に稲作の祭祀や民俗行事なども早い時期に日田への影響があったはずである。その追跡調査は日田の山肌を縫うように小河川流域の部落の祭事や稲作の痕跡を手繰ることによって可能である。それともう一つ見逃すことができないのは朝鮮半島からの影響で紀元前の墓制である支石墓である。福岡、佐賀、長崎の海岸沿いの台地には数多くの支石墓(ドルメン)が存在するが、日田地方にもそれがあるかどうか興味深いことである。朝鮮民主主義人民共和国のピョンヤン周辺100キロには約14,000基の支石墓、年代は紀元前4−3,000年頃とされるが、中には古墳時代への移行が想定される積石塚と一枚の大きな蓋石の組み合わせのものが大同江沿いで発見されている。湖南里古墳群のやや上流で、新石器時代の表大遺跡に隣接している地域である。

 

表大遺跡

 下層は6500年、上層は6,000年前の遺跡、精巧な石製品、魚網用のおもり石、石棒、すり石、石包丁、石剣、(かめ)などが多数出土している。発掘は8年続いている。

(ぶん)興里支(こうりし)(せき)()(ドルメン)

 この支石墓の蓋石には北斗七星が陰刻されていることで知られている。4−3,000年前の遺跡である。それから2−1,000年後頃に九州福岡、佐賀、長崎などの沿岸ぞいに支石墓が鉄器と稲作文化の前触れとして出現する。さらに数百年後には内陸部にもその影響がもたらされたことも考えられる。青銅製の矛、矛先、石剣、棍棒刀、(せき)(ぞく)などが出土した。日田在住の郷土史家長順一郎先生から石井地区の石造物に支石墓らしきものがあるということで見に行くことになった。

蓋石の上で説明するのは社会科学院の曹喜勝先生、その前はNHK毛利解説委員

 

表大遺跡に隣接する謎の墓石

 支石墓から積石塚に移行する時期の墓制ではないかと推定される。

 

 

日田市石井の岩座(いわくら)と支石墓

 今回の視察は玉川バイパスから三隈川を渡り鏡坂展望台を右折し、護岸寺トンネルを抜けてさらに右折すると石井1丁目の長順一郎先生宅にいたる。お宅から道を隔てたすぐ下を谷川という細流が流れている。かつて戦前のことであるが、谷川の上流に蛇石と呼ばれている大岩があり、その下の淀みをせき止めて田植えの水の配分をしたという。長先生の家の下には水納様という石がある。岩も石も水にかかわりのある神々である。

大字石井字向屋敷194番の水田の一隅にある安山岩でできた水納様

水納様を説明する長順一郎先生 サイズは高さ1m15cm、巾1m75cm、長さ約2m

北斗七星の陰刻がある(すい)(のう)(さま)

 石の形状から見て、これは支石墓の蓋石ではないが北斗七星の陰刻があれば庚申信仰の蛇神様もしくは水の神、田の神のシンボルの可能性がある。長先生が下を掘って見ましょうといわれたが、この石はかっては庚申の石塔として立っていたのではないかと思われる。

陰刻を線で結ぶと北斗七星文様となる。庚申信仰の石塔か、蛇巫、水の神、道祖神((さえの)(かみ))などか

()道祖神 1、中国系で、古来「道祖をまつって祖となす」といい、道祖神は旅を守る神、道を守る神として尊崇されてきた。遣唐使などによって招来されて平安時代から盛んになった。

2、記の諾・再(イザナギ・イザナミ)神話で黄泉比良坂(ヨモノヒラサカ)まで追いかけてきた再神を、千引きの岩で道を塞ぎさえぎったので塞の神となった。石崇拝から起こる。

3、天孫降臨神話の猿田彦が(やちまた)の神、道の神となり神道の道祖神となった。芦田英一「道祖の神々」より

上流にある(じゃ)(いし)

三隅川から谷川へ500メートルほど入ると採石場跡の岩肌が露出している。蛇石はすぐその下にある。採石業者は邪魔だから発破をかけて砕きましょうかといったが、長先生は断ったそうであう。似た話が西日本新聞の12月18日に載っていた。水俣川の最源流に頭石と書いてかがめいしと呼ぶ集落がある川岸に巨大な岩が2つ聳え、その上に平たい三角形の巨石がのっかっている。それが集落の名にもなった頭石である。村人はその由来を知らないとのことであったが、護岸工事の折にもう少しで爆破されるところをさる親父が猛反対をして守ったそうである。村では河童のシンボルではないかいっているそうであるが、これはまさに蛇石で水神である。爆破していたら必ず村に間違いなくたたりがあったと思われるが農耕稲作も機械化した今では蛇神は存在しないかも知れない。神話と伝説のないクニはなんと淋しいことか。

蛇石

 長さ約7m、高さ約2m、幅約2mの岩座。谷川の水源地に近く、岩の下から水が流れ出るように見える。頂には蛇の鎌首に似た石がある。まさに水の神、蛇石である。

                   ()吉野裕子「蛇」日本の蛇信仰より

 蛇信仰は一説によればエジプトにおこって世界各地に及び、東はインド、極東、太平洋諸島を経て、アメリカに達したといわれ、西はアフリカ、ギリシャから、ヨーロッパに至ったとされる。この伝播の中に日本列島も含まれるから、日本に蛇信仰が顕著なのは当然のことである。蛇が世界各原始民族によって崇拝されたのは蛇が祖霊、祖先神とみなされたからである。

カンカン石は支石墓か

 高瀬川を下に見て後背部に石井大明神がある台地にカンカン石がある。現在は十年前に植林されたヒノキで小道からは見えにくくなっている状態である。支石の部分を見ることができなかったので支石墓かどうかは判定ができなかった。しかし蓋石のような石の表面に三列の陰刻と下にもう一点が確認された。またその下方には明らかに「田」の字と読み取れる文字を見ることができた。これは紀元前の遺物とは関係はないが、文字が日田の農村に伝播した平安朝以後のものではないかと推定される。春になったら地主の承認を得て下草刈りと枝打ちをして支脚の有無と出土品の発掘を試みることにした。この石のいわれはその表面をたたくとカンカンと音がしたのでそう呼ぶようになったそうである。もしそうであれば下に墓室がある支石墓ということになるのだが、今のところ決め手はなかった。

木陰に埋もれたカンカン石           カンカン石に陰刻された「田」の字

山の神

 国土の80%が山地の日本では山の神が広くまつられている。富士浅間神社、三島神社、大三島神社などがこの神を主神とする大社である。また霧島神社や酒解神の名で梅宮神社や松尾神社の配神となっている。農耕時代になると山の神は、春になると里に下って田の神となって農事を保護し、秋収穫を終わって山に登って冬から春まで山の神になるという。

大水御祖神(オオミナカミミオヤノカミ)の別名のように水源涵養(かんよう)の神ともなるという。

「宗教辞典」()日田地方の松尾神社は菅原道真の天神信仰と習合して雷よけの農業信仰となっている。

石神

 石神はシャクジンまたはサクジと読む。この信仰は古く広いもので、日本のみならず世界各地各民族にあるものである。石に神霊がこもるという信仰は古いもので、風土記や延喜式などに記され、樹木とともに自然石を神の依り代とする例は極めて多く、現在でも社祠のご神体が石であるものがかなりある。しかし、すべての石が信仰の対象となるのではなく、その大きさ、形、ある場所などに何らかの特徴が認められ選ばれるのである。

 道祖神や猿田彦などをはじめとして立石が村に入り口にあるのは、疫病や災厄を村に入れないようという祈りを現したものである。

上部に三列の丸の陰刻右下に一つの丸の陰刻がある。サイズは長さ約2m40cm ,厚さ約40cm

 また、石そのものが霊威のあるものとし、成長するものと信じている地方もある。神が休息したという腰掛石、日田では会所山の神武天皇の腰掛石がある。岩座のように神の降臨する場所として神聖視する場所があるが、いずれも神霊との関係から生まれたものであろう。紀元2600年祭の前まで会所山(よそやま)にあった環状列石や天ヶ瀬にある鞍形(くらが)(とう)神社の照

葉樹林の中にある岩座(いわくら)はまさに神々の降臨するにふさわしい場所である。

 ()民間信仰では石の地蔵尊がある。地蔵は大地の神格化で星宿をつかさどる神とされ、仏教に取り入れられて地蔵菩薩となった。仏教では、釈迦が入寂したのち弥勒が下生(げしょう)するまでの間は地蔵菩薩が修行僧の姿で現れ、六道の衆生を救うことを委嘱されたと説かれている。「日本宗教事典」