
伊藤利光

南の方から見た会所山、山頂かけては杉林、山麓には照葉樹林の名残の木々がある。

西山麓には若八幡神社があった。景行天皇、比佐津媛を合祀して会所山神社となる。
西側山麓に会所山神社あり。隣接の家の68歳の女性に戦前からの会所山の変遷を聞く。山は山麓の刃連町の里山(共同所有山)で戦前にあった照葉樹林は杉の植林のために伐採された。しかし杉の市場価値が下落し、2度にわたる台風のために風倒木となり、山頂付近と山麓の人家付近のものは伐採された。その後20数年前に南側の井戸が枯れたため市は大きな井戸を掘り水道として使用するようになった。山の権利は市が借地として借り上げている。最近年に一度比佐津媛の祭りを開いているようだが付近の関心はほとんどない。
昭和27年発行の「日田市10年史」によれば会所山の当時の風景と縁起は以下のようになっている。
「日田駅の東方にひょうたんの半面を伏せたような小山がある。会所山と呼ばれ、以前は全山松杉檜におおわれていたが、山がひらかれいくつかの茂みを残して山層をあらわにした姿がまた、一つの大きな古墳を思わせ印象的である。この山が往古、日田の中心をなしたといえば、意外な気がする。」まさにそのとおりであるが、さらに現在では金属製の貯水槽が2基中腹に建造されているために、神の山の面影はない。「この山は盆地の東端に突出、東の月出山、西の亀山、高井岳と対峙した位置が面白い。頂上からは駅を中心とした豆田、隈の両市街が見渡され、四時の色美しく、区画正しい田園美、そこには往古の玖珠川も見られる。
麓の景行天皇、比佐津媛を祀る会所山神社は、はじめは山頂に祭祀されていたが麓の若八幡に合祀されたものだという。縁起によれば、文徳天皇天安2年の鎮座で、古の勅願所とある。」
「まきむくの 日代の宮の 遠すめろぎ あおがいまつる 会所の神山」と記された歌碑は昭和13年10月建とある。作者は肥後の人、うち内柴御風翁である。景行天皇後遺跡とある石碑も当時からあったものである。


内柴御風翁の歌碑 会所山中腹にある鳥井と貯水タンク

鳥井は刃連町の方が最近建立されたものである。後ろのあるタンクご神体ではない。水道の貯水槽である。さらに上った中腹にももう一つタンクがある。彼方には日隈山(亀山公園)が望見される。
戦前、戦後の会所山の思い出
私にとって会所山には2つの思い出がある。初めの記憶は昭和15年、16年ころ当時小学4年生ころ同級生であったか、先輩であったのか記憶は定かでないが、ほの暗い会所山の小道をひたすら樹林の天井を仰ぎ見ながら歩いたことである。釣竿の先に鳥もちをたっぷりつけて目白刺しをするためであったが、それを飼った記憶がないことを思うと不思議な気がする。後年5歳違いの弟、武君が目白刺しの名人で数十羽の目白を飼っていたことは鮮明に記憶している。
それから6年後に敗戦の憂き目に会うことになるが、中学3年のころ日田中学の名物教師故吉水信夫先生の指導というか洗脳というか強烈な体験を受ける羽目になってしまった。敗戦の年、昭和20年にわれわれ中学3年生は豆田の酒造倉庫の中で、わが空軍の飛行機が空襲の難を避けるためにおとりとして使用する木製の飛行機作りに励んでいた。当時の同級生には諌山昌信など20数名がいた。吉水先生はその年の秋ごろからわれわれを自宅の明王寺に招き蔵書を披露した。戦後には資本論が出てきたが、その折にはもっぱら文学書を貸していただいた記憶がある。岩波文庫、創元社文庫、日本文学全集、世界文学全集などなどがあったような感じが残っている。終戦前に工場の倉庫の二階でツルゲーネフの初恋を呼んだ記憶が生々しい。その後、諌山昌信は詩人になり、私は映画を目指したが途中で挫折し、広告、マーケティングを生業として50年、いまは伊藤電気を経営しながら東北アジアの古代史と考古学を学び、日田の文化遺産の企業化を思案中である。
思えばはるばるきたものかと会所山の山頂で往時をしのびながら感慨にふけっている。
さて話を戻そう。敗戦後いち早く吉水先生は共産党宣言を行いはなばなしく活躍した。われわれも熱に浮かれたように先生を取り囲みひもじい青春を謳歌した。秘密結社めいた共産党めいた活動は少年たちの心を揺さぶるには十分すぎる毒薬であった。その結社の集合場所が会所山の頂上であった。週に一回程度集合してはインタナショナルを合唱した。
あるとき、私は手製の赤旗を持参したが鎌と槌のマークのシンボルが反転して間違っていることに気がつかず、先生に注意されたことがあった。顔から火が出るほど恥ずかしかったことを覚えている。
私にとって会所山は背の高いやぶ椿といちい樫の繁茂する秘密めいた小丘陵であった。当時は神々の山であることには気がつかなかった。
古代の日田部落国家の成立
日田の古代は水利の利便性が高い豆隈盆地の河川流域に発生した。最初は花月川流域である。夜開郷鍬本を中心として三和住吉部落以南の上手町、天神町、日出町、円山町にかけて豊かな美田地帯を形成していた。
その後は玖珠川と大山川のより大きな河川流域の美田地域に発生した有力な氏族に統一世襲されて久津媛の先祖となった。津江、大山の有力三氏族も統一世襲されて五馬媛の先祖となった。母系中心の緩やかな宗教連合国家で邪馬台国の卑弥呼の傘下に属していたと思われる。
ここでは邪馬台国論争には触れないが、会所山山頂の円墳の径はやく75mである。魏志倭人伝の卑弥呼の墓の径は百歩とあるが、この長さを歩幅に換算するとちょうど75mである。祭祀の聖地としての条件は古代の大和と同様に神々の祈りの適地である。会所山の歴史が先行していれば大和がその模倣をして国づくりをしたことになる。逆であれば会所山が大和政権の影響下で祭祀の場所を選んだことになる。
これは邪馬台国の所在が大和であるか、九州かと論を二分していることと同様なテーマーである。今後の考古学的な検証を期待する。
吉野裕子によれば古代日本人にとって「東は神界、西は人間界であったが、人間界からさらに西方は太陽の沈むところであると同時に、人の死につながるところである。人間の場合、東から西への動きは誕生を意味するが、その動きの中央にあるものは母の胎である。西から東への動きは死去を意味するが、その西から東への中間にあるものは、母の胎内になぞらえられた墓、つまり擬似母胎である。
母の母胎も墓も共に「穴」であって、この穴にこもるということがあってはじめて、完全な生と死が達成されるのである
神の場合も同様であって、人の生死から類推から想定された神迎え、神送りは、母の胎になぞえられてつくられた山中の御嶽や、巨岩の作り出す洞窟などで行われた。また岩クラという陰石や窪地が擬似母胎、擬似女陰として神のみあれの場所としたであろうことは、先述の通りである。」ところが中国からやってきた陰陽五行とは神は天にいて、人間にいる地に下りてくるという天地軸で成り立つ。日本人はこの外来思想を取り入れて天地軸を水平軸に移し変え天は北で地は南とし、東の神界を北に移し変えて中国の思想を自らの信仰と習合させてしまった。白鳳期の天武天皇のころからこの考えでさまざまな行事が呪術とともに展開された。
日田は大和に先駆けて東南アジア、ヒマラヤから中国江南地方経由で照葉樹林地帯の文化の洗礼を受けている。三世紀の久津媛当時の日田はシイ、クスノキ、ツバキ、モチノキ、サザンカなどの照葉樹林で覆われていた。穀類はアワ、ヒエ、キビ、ダイズ、ソバなどの雑穀類とヒョウタン、コンニャク、ナツトウ、イモ類などがもたらされた。今でも宮崎、熊本県の一部では焼き畑農業が残っている。
縄文文化の基盤をなすもので、日本人の精神世界にも大きな影響を及ぼした。現在の日本人の心の中の奥底深く貼り付いているものは照葉樹林の森の神々であることは否めない。
岡正雄によれば日本文化は柳田国男の稲作による単一文化説ではな
い7つほどの外来文化によって成立したという。数万年前に北方から、
縄文時代初期には南シナから、続いて弥生時代にも入ってくる。古墳
時代になると北方から数次にわたって入ってくる。日本の固有信仰と
される宗教が縄文時代から現代まで受け継がれているのは照葉樹林文
化の影響が残っているからであろう。
会所山は森林と
東西線上にある会所山の略図、大和と同様西方に古墳群がある

岩クラの概念図

「隠された神々 古代信仰と陰陽五行」 著者:吉野裕子 より引用
山頂へ至るテラスよりのパノラマ風景


北東には大原神社が、奥には伏木峠を見る 北西には南元町、中央、三本松の市街がある


ガランドヤ古墳がある日隈山をのぞむ 南方の眼下には報恩寺山古墳群がある


南西には五条殿を望見する 北には古墳群がある大原と慈眼山を見る
山頂の風景
360度、東西南北を一望に見渡す丘陵台地である。まさに日田盆地の中心はこの会所山である。環状列石らしき状況はうかがえるが、新しく建造された石造物や石塔のためにその原型は破壊された様子である。遺跡としての調査はできそうにない現状である。中には明らかに石を裁断したノミ跡がのこっている平板な石が敷石として使用されている。いったん破壊された鎮守の森や久津媛の杜は回復することはない。市や青年商工会議所の名前で桜や雑多な木々が植林されているがさびしい風景である。
山頂付近の景色

奥には久津神社の社殿もあるが、手前の石燈籠や石碑が乱雑に配置されている。神社か公園か判然としない。所有権や主権者の問題があろうと思われるが本来は聖なるこの山をどのようにするかはっきりとすべき時期が来ている。市民と行政と所有者の間で議論すべきである。

戦前の会所山は照葉樹林の
山麓の神社や付近にはかって全山を覆っていたやぶ椿やいちい樫や楠が散見される。




日田郡市の山林の植生は杉檜がそのほとんどを占め、かつて九州全土をおっていた照葉樹林は絶滅状態である。会所山も戦前までは神々の山としていちい樫(亀山公園や宇佐神宮の植生が参考になる)やぶ椿などに覆われていた。復元も調査もできない状況のようである。山頂には桜やアジサイやその他雑多な木々が植えられている。しかも水道施設のタンクが山腹を占拠しているので、今後の会所山の開発または公園化については所有者である刃連町の方々と行政で相談の上美しい公園とするのがよい方策ではないかと思われる。全山桜または桃の木という景色が思い浮かぶ。桃は桃源郷でしかも果実が取れる。独立小丘陵の会所山では夏は南西、冬は北西からの鬼門の強風が吹き荒れることがある。その上で植栽を工夫すれば名所になることができるかもしれない。戦後植えた杉の木は風倒木となり、残った木々は外材に押されて売ることもかなわない。遺跡として残れなかった美しい公園としての価値は十分にある。360度のパノラマは日田随一の絶景である。






千客万来の桃源郷「日田盆地」
亀山公園の山頂にある日の隈神社には江戸時代の元治元年(1864)に山頂の老木の根元から出土したと伝えられる漢代の鏡がある。中央の四葉座の周りに精巧な線で獣形を描いた細線式獣帯鏡である。現在は風土記の丘歴史民族資料館に保存されている。古墳と見られる遺構はなく出土状況は明らかではないが漢鏡としてはまことに優品である。
日田は古来地理的条件が東西南北の古道が山塊を貫通して走り、風光明媚の土地柄であったが、この美しさを保存することがまだ十分ではない。豆田の成功もあるが、それでも歩行者天国が実現できない状況である。観光立国としてはかなり遅れをとっているとしか思えない。
町全体が遺跡ということや、まだ城下町の人情が色濃く残っている事など考えると「千客万来年」になることは夢ではない。
東大名誉教授木村尚三郎氏は西日本新聞の潮流を読むのなかで町づくりについて示唆にとんだ意見を述べている。
「価値の大転換が世界的に訪れたのは、1970年代に入ってからのことである。73年の第一次オイルショックが持つ文明的な意味は、人類が資源、エネルギーの制約を突破できないという、現代における技術文明の成熟、手詰まり状況を明らかにした点にある。そこから、これまでのように過去を無視し、断ち切って前へ前へひたむきに進もうとするアメリカ型の反省が、世界的にやってきた。
72年パリの第十七回ユネスコ総会は、「世界遺産条約」を満場一致で採択した。
わが国についても、白神山地、姫路城、京都の社寺、屋久島、その他に加えて、最近、白川郷、五箇山の合掌造りが新たに登録されたことは記憶に新しい。(中略)
過去を愛し、そこに生きた人の知恵や経験を堀り起こし、今日に生かす。このように、いわば先人の胸を借りることなしに、進歩の終焉がやってきた先行き不安の現代を生きることは難しい。
城下町に人々がそうであったように、歴史、伝統文化が息づく町には、市民の生きる誇りと自信、落ち着きがある。よそ者にも、訪れ集う大きな魅力と価値がある。そのような「千客万来都市」こそが、21世紀に意味を持ち、繁栄する都市の姿である。
歴史と現代との共存をはかり、歴史や美しい伝統文化を積極的に掘り起こし、創造することこそ、ルネッサンス(再生、復活)の本当の意味がある。
セカンドルネッサンスのとき、町づくりに歴史が問われる時がやってきた。」日田盆地、桃源郷構想は百年かけても実現したい町づくりである。その先駆的なシンボルとして日田にも歴史または考古博物館の造成が望まれる。一つの町全体が世界遺産の対象となるような夢を実現したい。